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百人一首 探訪

 

和歌の世界で多くを占めるのが四季の歌と恋の歌です。百人一首は恋歌が半ば近い43首を占め、四季歌は32首です。その中で夏は4首しかなく最少ですが、今まさに猛暑なので、夏の歌に注目してみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

持統天皇の和歌

 

 

〈春過ぎて夏来にけらし 白妙の衣干すてふ天の香具山〉

最初は、百人一首の二番で、春の季節が過ぎて夏がやって来たようだ、白妙の衣を干すという天香具山だよと、夏の到来を極めて素直に詠んだ歌です。出典は「新古今集」の夏ですが、原歌は「万葉集」にあり、「……夏来たるらし…衣干したり…」とある部分に違いがあります。万葉集の直接的・現実的な描写に比べて、間接的で穏やかな印象があります。
大和三山の一として古代人には格別に親しい、伝説では天から降ったとされる天香具山に、白妙の衣が干されている状況から夏到来を詠んでいます。ここでなぜ「白妙の衣」なのか、その情景について、現代人には具体的にはわかりません。天香具山での初夏の神事に使う衣を干していると説かれるほかに、春霞を比喩したものだとも言われており、藤原定家は咲き広がる卯の花の比喩と理解したとも言われます。現代人は、ただ初夏の爽やかな明るい空の下、山の緑を背景にして薫風の中で翻る白妙の衣を想像して味わうばかりです。

この歌は、持統天皇の和歌としては、初めて勅撰集に選ばれた歌で、それも新古今集の夏冒頭に入っていますが、それ以前は藤原定家の父・俊成が「古来風躰抄」に万葉歌の一首として選んだのみです。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

清原深養父の和歌

 

 

〈夏の夜はまだ宵ながら明けにけり 雲のいづこに月宿るらむ〉

次は、百人一首の三六番です。出典は古今集の夏で、「月の面白かりける夜、暁がたによめる」とあります。少し内容を補って訳しますと、夏の夜は短くて、暗くなって間もなく明けてしまった。西に沈むだけの余裕も無く空に残っている月は、雲のどこに隠れているのだろう、となります。

この下句の実際の様子について、古い注釈では、すでに月は西に沈んでいるとされていましたが、出典の古今集百人一首についての現在見られる多くの本では、空が明るくて月が見えにくくなっているとか、和歌の下句のように実際に雲間に隠れているのだろうとかの説明がなされています。
こうした理解の初めは江戸時代の香川景樹の注釈書「百首異見」に始まるようです。以下に引用すると、
〈夏の夜はさしも短く、まだ宵の間に明け渡りぬるを、なほ中空に照る月は、雲のいづくにか隠れやすらんと云へり。これは、六月の有明ころ、月に浮かれて澄み明かしたる様にて、……〉
とあります。この前半は上に示した訳にほぼ重なりますが、景樹の説明には無理があります。それは、「六月の有明ころ」とあるように、この歌の初めが「宵」(日が沈んで間もない夜)で、夜明けに残る「有明の月」を詠んでいるとする点です。月は、満月が日暮れに東から上り、夜中に中天に達し、夜明けに西に沈みます。そして、満月以前の月は出る時も入る時も全体として時刻が早くなり、反対に満月以後は全体に遅くなって、後者の場合に夜が明けた後でも空に残る「有明」になります。

深養父の歌で、「宵」の段階で月がすでに空にあって、それが満月前の月であれば、出始めが夕方以前で「有明」まで残らず、夜明け前に西に没しているはずです。つまり、この歌の「明けにけり」という時点で、月はすでに空にないということで、景樹以来の解釈は成り立たないと思えます。

この歌は、実際には空にないとわかっている月を、見えないのは沈まずに雲に隠れているのかと心に描いて詠んだわけです。上句で「まだ宵ながら明けにけり」と、いくら夏の夜が短いにしても現実離れした極端な誇張から詠み始めたのですから、下句も現実的でないことは、ごく自然です。すでに西空に沈んだ月が、いまだ空に出ているはずとして詠むことは何ら不自然ではなく、当時の詠法らしいとすら言えます。
同時代で非現実的想像を詠む例は他に何首もあります。その一首を挙げれば、古今集春上の二条后の歌で、

〈雪の内に春は来にけり 鴬のこほれる涙けふや解くらむ〉

春になった象徴としての解氷を、鴬の凍った涙が解けるという非現実的なことを想像して詠んでいます。深養父自身の歌でも、同じ古今集の冬にある、

〈冬ながら空より花の散りくるは 雲のあなたは春にやあるらむ〉

冬のままで空から花が散ってくるのは、雲の上の彼方は春になっているのだろうか、というもので、雪を花に見立てた和歌です。実際にはない花を現実にある前提にして、空から花が降ってくるのだから、「雲のあなたは春」というのは非現実を重ねた想像です。「…ながら」や「雲の…」の語まで三六番歌と同じで、同じ作者だからか構造まで一致しているとみえます。
三六番歌の下句が作者の想像世界の範囲であって、現実には月は空に残っていないと考えることの正当性まで保証しているようです。これらのように、写実ではなく想像する心の世界を詠んでいる歌は古今集時代の歌の一典型になっていて、類例は他に何首もあります。三六番歌もそうした詠法の一首と理解すべきでしょう。

深養父の曾孫が清少納言であり、「枕草子」初段での「夏は夜。月のころはさらなり」は、あまりにも有名です。深養父が描いた夏の月の幻を、清少納言は現実に定着させたとも言えるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

藤原実定の和歌

 

 

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