東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)から10年になろうとしています。
大きな地震が前々日、前日の2回 まさか巨大地震の前触れだったとは。
2011年3月11日午後2時46分 反復する激しい揺れ
2011年3月11日午後2時46分。
避難行動を躊躇させる「正常性バイアス」の恐ろしさ
正常性バイアスとは、人間が予期しない事態に対峙したとき、「ありえない」という先入観や偏見(バイアス)が働き、物事を正常の範囲だと自動的に認識する心の働き(メカニズム)のことを指します。
仙台湾一帯で多数の犠牲者を出した石巻市、東松島市、仙台市の沿岸部、名取市閖上地区など、こうした「正常性バイアス」と無縁ではなかった可能性があります。
2011年3月11日午後3時55分 大津波襲来
塩竃市海岸通 3月11日午後3時55分~午後4時00分頃
情報源となっていたラジオは刻々と、現代日本にとって未曽有の大災害が起きている事実を伝えていました。広域で携帯電話基地局が被災し、SNSは情報源になり得なかったのです。余震は数分おき、間断なく揺れている状態。30分に1回位は強い揺れが襲ってきました。まさに昔みた映画「日本沈没」の1シーンそのままでした。
無情の雪・星降る夜
塩竃市海岸通 3月11日午後3時55分~午後4時00分頃
津波が襲来する少し前から雪が降り、うっすらと積もり始めていました。上空の強い寒気の影響で小さな低気圧が発生したことによるものです。
雪の降っていた時間は短かったものの、夜は晴れて気温は氷点下へ。暗くなって水が引き、外からはサーチライトとともに「誰かいますか!!」と、人を呼ぶ声が聞こえました。気温の低下でいったんは助かった多くの命が低体温症で奪われたと聞いています。まさに「無情の雪」になりました。その日の夜は広域停電で降るような星空に。あの空は十年経ったいまでも忘れられません。生涯忘れることはないでしょう。星々はあの日、天に昇った二万の命だったのでしょうか。一方、仙台港のコンビナート火災が拡大し妖しい光も見えていました。時折、爆発音も聞こえていました。
雪の降っていた時間は短かったものの、夜は晴れて気温は氷点下へ。暗くなって水が引き、外からはサーチライトとともに「誰かいますか!!」と、人を呼ぶ声が聞こえました。気温の低下でいったんは助かった多くの命が低体温症で奪われたと聞いています。まさに「無情の雪」になりました。その日の夜は広域停電で降るような星空に。あの空は十年経ったいまでも忘れられません。生涯忘れることはないでしょう。星々はあの日、天に昇った二万の命だったのでしょうか。一方、仙台港のコンビナート火災が拡大し妖しい光も見えていました。時折、爆発音も聞こえていました。
泥と悪臭との闘い 高まる衛生面の不安
塩竃市海岸通 2011年3月13日
本格的な復旧作業は、本震から2日後の13日からとなりました。ただ、正直どこから手をつけてよいのかわからない状態。
ただ、正直どこから手をつけてよいのかわからない状態。自宅は不同沈下で傾き、玄関は使えません。店のシャッターも歪んで閉めることが出来なくなっていました。仕方がないので、店と玄関を仕切っていた壁に穴を開け、店側から出入りすることにしたものの、完全な施錠はできません。被災地における空き巣の多発など、治安悪化の情報があるなかで、しばらくは不安な夜を過ごしました。あとは泥との格闘でした。一面に堆積した汚泥(ヘドロ)のにおいと北側の通称「やみ市」から流れ出した大量の魚の腐敗臭が混ざって、形容しがたいにおいです。異臭に耐えながら、ひたすら泥を国道側にかきだしました。あっという間に着ているものや頭は泥だらけになります。衛生面は劣悪な環境になっていました。断水で手も洗えないため、感染症との恐怖とも闘いました。真っ先にホームセンターで消石灰を調達し、家の周囲にこれでもかと思うくらいに大量に撒きました。
塩竃市海岸通 2011年3月13日
不幸中の幸いで、自家用車が流されずに済んだので、食料等調達の足は確保していました。
ただ、被災地全体で極端な物資不足に陥り、開いている店に足を運んでも、棚に商品はなく、一人何品までなど、購入制限がかけられているような所がほとんど。開けているガソリンスタンドには、数キロもの長蛇の列。これ以来、車のガソリンは、「燃料計が1/2切ったら給油」の習慣がつきました。ただ、被災後、本当に助けられたのは、職場からの支援です。食料品、飲料水はもとより、ガソリン、ポータブルコンロなど、ありとあらゆるものを援助していただきました。
ただ、被災地全体で極端な物資不足に陥り、開いている店に足を運んでも、棚に商品はなく、一人何品までなど、購入制限がかけられているような所がほとんど。開けているガソリンスタンドには、数キロもの長蛇の列。これ以来、車のガソリンは、「燃料計が1/2切ったら給油」の習慣がつきました。ただ、被災後、本当に助けられたのは、職場からの支援です。食料品、飲料水はもとより、ガソリン、ポータブルコンロなど、ありとあらゆるものを援助していただきました。
全壊判定の自宅への避難~転居まで3か月
在京メディアの関心は、次第に津波被害そのものから、福島第一原発関連情報にシフトしていきました。自分達に必要な情報が得られない不安やもどかしさを感じていました。現場の福島はともかくとして、首都圏目線でしかなく、岩手、宮城では、いまを必死に生きるうえで不要不急の情報でした。情報を伝える側の立場としては10年後のいまでも考えさせられます。必要な情報は、地元コミュニティFM(災害FMとして増力運用)から得ていました。
※繰り返しになりますが、ネット、SNSは全く使えませんでした。
電気、水道、ガスなど、ライフラインの復旧には半月程度かかりました。このとき、親はすでに高齢となっていたこともあり、仮設や避難所は選択せず、いわゆる自宅避難の形をとっていました。ただ、前述の通り当時築51年の実家は、地震と津波のダメージにより、もはや住める状態ではなく、「全壊判定」もでていたので、転居先の選定を急いで進めました。同様の事情で壊滅状態となった沿岸部から仙台市の内陸部などに転居する世帯が増えたため、住宅事情は逼迫していたものの、幸い3か月で転居することができました。
※繰り返しになりますが、ネット、SNSは全く使えませんでした。
電気、水道、ガスなど、ライフラインの復旧には半月程度かかりました。このとき、親はすでに高齢となっていたこともあり、仮設や避難所は選択せず、いわゆる自宅避難の形をとっていました。ただ、前述の通り当時築51年の実家は、地震と津波のダメージにより、もはや住める状態ではなく、「全壊判定」もでていたので、転居先の選定を急いで進めました。同様の事情で壊滅状態となった沿岸部から仙台市の内陸部などに転居する世帯が増えたため、住宅事情は逼迫していたものの、幸い3か月で転居することができました。
この経験は絶対に忘れてはならない そして未来へ伝える
東日本大震災から10年が経ちますが、当時の記憶は鮮明に思い出されます。
「災害は忘れたころにやってくる」と言われますが、決して忘れてはいけません。現実から目をそらさないでください。もしものために、この機会にいまいちどご自分の身の回りの状況を確認し、災害への備えを行いましょう。
「災害は忘れたころにやってくる」と言われますが、決して忘れてはいけません。現実から目をそらさないでください。もしものために、この機会にいまいちどご自分の身の回りの状況を確認し、災害への備えを行いましょう。
ビットコインとは?
ビットコインは世界初の分散型デジタル通貨です。
ビットコインは円やドルと異なり、銀行に頼ることなくインターネットを通じて個人間で直接送金することができます。
世界中の一部のお店やネットショップで両替せずにそのまま支払いをすることも可能です。
世界中の一部のお店やネットショップで両替せずにそのまま支払いをすることも可能です。
通貨単位 | Bitcoin / BTC |
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発行可能上限数 | 2,100万枚 |
コンセンサスアルゴリズム | Proof of Work |
送金速度 | 10分程度 |
時価総額ランキング(2020年5月時点) | 1位 |
Coincheck取り扱い開始日 | 2014年8月 |
公式サイトはこちら |
仕組み
そのため、中央銀行が主体的に価値を維持しようとするのではなく、市場の原理で価格が決まるのが、円やドルと決定的に異なる点です。
将来性
一つ目のポイントは世界各国の規制強化の動きです。
ビットコインは価格変動が激しいことや即時決済が難しいという側面もありますが、日々仮想通貨の技術は進歩し、改善されています。
ビットコインが普及していくにつれて各国で規制される動きが見られるようになり利用者を保護する仕組みが仮想通貨取引所に求められるようになりました。規制が厳しくなると価格変動に大きな影響を及ぼす恐れがあります。
二つ目のポイントは希少価値です。